ポッポ屋のブログ

喫煙者の日記です。

紅茶にはまりだしたのでマリアージュフレールのマルコポーロをば

 

マリアージュフレール マルコポーロ 100g [並行輸入品]

マリアージュフレール マルコポーロ 100g [並行輸入品]

 

 これこれ、買った飲んだはまった。

パイプなんかでも「blue note」とかが好きで僕はどうやらバニラフレーバーにめっぽう弱いらしい。

ちなみに「blue note」はこれね。

www.tabako-sakuranbo.co.jp

パイプとかたばこの話は次回に譲るとして今回はこの紅茶について感じたことを感覚の新鮮な内に言語化しておきたいと思った。

 

紅茶の夢や ホームページ

こちらでダージリン、ウバ、キームンといった三大紅茶やらマスカットとかアップルなんかのフレーバーティも各10g買って試してみた。

とりあえずたくさん買ってしまったものだから毎晩のように飲み続けてたらすっかり夜のティータイムが習慣化して住居服装頭髪性欲人格平然と屁をこくなど茶に関わること以外すべてを除けばすっかり英国紳士の仲間入りな生活を過ごすようになった。

紅茶も緑茶も元はチャノキって木の葉っぱから作ってるんだからましてや同じ紅茶のダージリンもウバもキームンも原産地が違うだけで大差ねえだろうと思ってたのは実際に飲み比べるまでで飲んでみたら全然違う。はっきり違う。

違うもんだからやっぱり好き嫌いがあって(嫌いと言っても好きと比べれば好きではないという意味で決して嫌いなわけではない)僕は香りが強い割には飲んだ後すっきりしていたキームンがお気に召すようだった。

ただ、なんというか紅茶に求めてたのはもっとこう香りの楽しい、もっと言えばきついというかはっきりしているというかお香とかアロマのように甘いものを期待していて、そんなわけでキームンで甘い香りのものを飲んでみたいと行き着いた先がさっきのマルコポーロだった。

缶の蓋を開けるだけで香りが部屋に広がるからそれそれは期待がふくらむ(缶もおしゃれでずらっと並べたくなる)で、熱湯を注いだらまたこれがなんとも幸せな香りで。

3分がじれったい。カップラーメンなんて目じゃないほどにじれったい。待ち焦がれて飲んだら甘い甘い。香りが甘いから味まで甘く感じる。コーヒーにどばどば砂糖入れる僕が砂糖なしで飲むくらいだから相当甘い。

これよこれ、紅茶に求めてたのはこれよ。

ただ、一杯目失敗したかなと思ったのは葉の量が多かったのか、蒸らし時間が長すぎたのか少しくどいかなと思った。キームンのすっきり感が損なわれたように感じたので今度は蒸らし時間をもっと短くしてみたいと思う。

ロードオブザリングを観て思ったこと

映画を観てこれを書こうと思ったんだけど、映画についてどうこう言うつもりがまったくなくてかなり脱線すると思う。

 

ファンタジー作品の完成度というか芸術性の尺度のひとつに虚構から現実を作り上げるか? ってのが僕はあると思ってる。

その上で指輪物語の完成度は他のファンタジー作品とかとは一線を画しているところがあって、それは中つ国の世界の独自言語で語られる神話なり伝説の翻訳という立場をとっているところにある。

現実でさえ国が違えば言葉は違うのに、ましてや中つ国みたいなファンタジー世界じゃ国どころか種族が違うんだから当然使われている言語が違う、と想像するのは至って当たり前なんだろうけど、それを小説化するに当たって、たとえば台詞のカギ括弧の中がいきなり観たこともない文字になっていたら読者は困るわけで、結局作者が用いる言語で統一して描かれることになる。つまりはネイティブが英語のイングランド人が登場してイングランド人同士で会話しているのに小説の文章上では日本語で書かれてしまうことを言ってる。地の文で『と彼らは英語で語り合っていた』みたいに表現するのもいいけど、そうすると『英語で語り合っていた』ことに意味が出てきてしまって困ったことになる。だから特段気にしないことにするんだろうけど、トールキンは言語を作っちゃったからまあすごい。

神話を描く上でその民族の歴史は欠かせなくて、歴史とは言葉による伝承であるからして、言語のくびきから逃れられない。つまり神話はその言語が作り出すと言って過言じゃないし、というより言葉が神話を生み出しているのだと僕も思う。

ただここからは予想だけど、トールキンの虚構世界で虚構の言語を用いる民族や種族の関わる神話を生み出したという偉業はファンタジーとしてまだ完成した訳ではないとおもてって、もし上記した尺度の上での到達限界点があるとすればそれは現実世界で言語が統一された時にしか完成されないと思うわけ。

何でかって言うと、中つ国でトールキンが語らせた人工言語の素地は北欧とか古英語とかから引っ張ってきているもので、それはトールキンの趣味だろうけど、つまりたとえば日本語を素地にした人工言語は使われていないので、日本語のような言語を素地にした人工言語を使用した民族なり種族の神話を紹介するという形式でのファンタジーも作られうるとおもうから。要は言語という尺度でもってカバーし切れてないという理由でまだまだファンタジーにはフロンティアが残ってると思う。ただ、現代のファンタジーはどちらかというとそういう技術面というか言語面という土俵で競ってるっていうよりリアリズム文学? 日本じゃ純文学なのか? まあそういうのとの対抗勢力としての一勢力みたいな格好になってるんじゃないかなって勝手に妄想してる。「小説は楽しいことが何より大切(エンタメ脳)」VS「小説は楽しい以上の何かを感じさせてくれる(純文学脳)」の醜い争いみたいな。

まあそんなファンタジーの今後の趨勢とかはどうでもいいんだけど、なんかこう日本語とか中国語とかインド・ヨーロッパ語族じゃないような系統のファンタジーが読みたいし映画も観てみたいと思うけど、小説はできるかもしれないけどたぶん映画は僕の人生中では観られないんだろうな。三世代ぐらい先かな、日本があればだけど。

でも、つくづく歴史は作られるもんだってのを痛感した気分だし、途中の思考経路全部すっ飛ばして言うけど、歴史が語られなかったら道徳もヘチマもないから作らなければいけないもんなんだなとも思った。

話をロードオブザリングに戻して、あの世界観での善悪は自然を壊すかどうかみたいなナウシカな倫理観があったように思うし、故郷を奪うやつ許せねえみたいなのもあったと思う。自然を愛そう、大切にしないと罰があたる、木を無闇に切り倒すやつはなってない、みたいな価値観って古代ギリシャの時代にはそこそこできあがってたようにおもうんよね。

フェニキア人ってのに今すごい関心があるんだけど、フェニキア人ってカルタゴハンニバルで有名だけど、僕がこいつらすごいなって感じるのは地中海の海運を牛耳ってたってのが大きい。そのとき拾った知識なんだけど、あのアナトリア半島とかペロポネソス半島とかエジプトとかのあたりってなんとなく岩肌が丸出しで森とか少なそうなイメージなんだけど、あそこには元々森林が生い茂ってたみたいでそれを船とか鉄とかのために切り倒しまくって不毛な土地にしちゃった経緯があるのよね。それで雨の水分を土地にとどめる機能が木を切りすぎたために低下して農業の生産量が著しく低下するようになって食糧難に陥っちゃう傾向になってしまったから豊かな土地を求めて戦争ばっかするようになった。豊かなってのは近くに川があって灌漑しやすいような土地とか。稲作と違って麦って連作障害が起きるから日本のような稲作より土地を多く必要とするんだろうね。でローマとかイスラム帝国とか出てきて統一されるようになってやっと安定したイメージを勝手に持ってて、話を戻してナウシカな倫理観ってそういう過去の失敗が語り継がれて今の時代にも受け継がれてるのかなって、勝手に妄想してる今日この頃。

というような根拠のありそうな妄想だけで架空の歴史を紡ぐのがファンタジーなので、最近現実世界がとんと面白くなくなったんでファンタジーな世界で生きてたいなと思うのでした。ちゃんちゃん。

結婚の意義ってこの他になんかあるか?

結婚について考えてた。

で、日本における結婚っていう儀式というか制度というか、未だになんであるのかなって考えると、理由は2つしか僕には思いつかなくて(厳密に言うと究極は1つだけど)、1つが「誰と誰が原因となった子なのか?の客観的に確定するため」なのと、もう1つが「誰がその子を保護する責任を負うのかを決めるため」だと思い至った。

昔はDNA鑑定なんてなかったから誰の精子と誰の卵子が結合してできた子なのかが、結婚がない社会では客観的に確定できないかった。(てか、今でもDNA鑑定するには4万ぐらい、法的な証拠としての鑑定では8万とか結構な値段がするんでみんながみんなできるわけじゃないから今も昔もそう変わらない気もする。)

要は実際誰と誰がやったかなんて本人同士でも知れたもんじゃねえってこと。

幸いな事に人間の生態上、精子が自由意志を持って空気中に勝手に飛びだして女性めがけて飛行するなんてことはないし、ましてやコウノトリさんがどこからともなく子を運んでくる訳ではないので、あなたと以外誰ともセックスしませんorしてません期間を設ければその間にできた子はその当事者2人以外にあり得ないことになるわけだ。

その期間の区切りの始めが結婚ということになる。

実際民法で女性の再婚禁止期間が半年だとか、改正されて100日だとか、まあいずれにしても禁止期間が設けられてるのもこの辺が理由なわけだ。

 

じゃあ、なんでこうも誰と誰の子かを確定させにゃならんのだ? って言うと誰が子の責任を持つんじゃいって事につながる。

子供を産んでもその辺に捨てておkな社会を想像すると誰が考えたってびっくりするほどディストピアって感想が浮かぶと思う。

となるとオギャって産まれた子を誰かが育てないとマシな社会にならんわけだ。ということは誰かがそのオギャって産まれてから当分の間その子の面倒を見ないといけないということになる。

面倒を見られる存在は政府だとか病院だと孤児院だとか他にも色々考えられるけど、予算とか多様性とか母性とか要素を鑑みて順当に考えると子を産んだ母が面倒見るのが筋だろ、となるだろう。(折角辛い十月十日、陣痛出産という痛い思いを経て出会った子と母を引き裂くのもなんか申し訳ない気もするし)

母が子を育てるのは決定したとして、独りで育てるのか、育てられるのか? という問題が発生する。社会全体母子家庭というのもなかなかなディストピア感がある。

そこで気持ちいいことだけして暇そうにしてるのがいるので、産後とか寝る暇とか母に作ってあげるためにもちょうどいいじゃないかとこいつらの内の誰かに責任を負わせてしまえと、そうなった。オスの面々である。

じゃあ誰がいいか? それはセックスした張本人以外にないだろう。誰がどこの誰かも知れない女性の子の面倒のために一日の大半を、それも二十年近くも裂こうだなんて思うのか。もっと言えばセックスしてできた子であっても愛とか決意とかいう感情や信仰や良識とかいうあやふやなもの抜きに一日の大半をそれも二十年近く裂こうなんて思うものか。

どうにかして子の面倒から解放されたい男は「おいらそんな女抱いたことなんてねえ!」とかへちまだと嘘をつくに決まっている。

で、先述の「誰と誰が原因となった子なのか? を客観的に確定するため」の結婚が出てくる。

 

社会「この子はお前の子だと母が言ってるからお前が責任をとれ!」

男「いや、おいらその女しらねえ。抱いた覚えなんてねえ。その女嘘つきだ!」

社会「黙れ! てめえ結婚してるだろうが!」

男「ぐぬぬ……」

 

結婚という約束があるおかげで男にも子の面倒をみさせることが出来るようになった。めでたしめでたし。

 

で、ここからが僕の言いたいことなんだけど、結婚ってどう考えても将来できるだろう子供のためなのよね。

愛のためでも、孤独でいる寂しさから逃げるためでも、配偶者を独占するためでも、ましてや社会的信用のためでも、経済的理由でも、労働からの逃げ場でも、子供産むための制度でもなく、産まれてくる子供の責任を負うため(負わせるため)に存在してる、と僕は考えるわけ。

その前提に立つと、出来ちゃった結婚は本来相当やばいな、と思えて、なんでかって言うと「仮にもし君に子供が出来た時は僕が責任を取る」っていう約束(つまり結婚)を妊娠する前にしてないと、妊娠してから「結婚して」と女が男に詰め寄っても男は「そんなの知らない」で済ませられるからできちゃって結婚に至れないことが大いにあり得る。現代ではDNA鑑定したらわかるという人もいるだろうが、裁判になるまで男は鑑定を拒否できるし、裁判になったとしても海外逃亡して代理弁護人に「女には他に男がいた」と主張させれば最悪逃げ切れたりする。てか、その前に認知のない子育てしながら裁判とか相当気力がなければ多分取り下げざるを得なくなるんじゃないかな?

幸い、昨今の男は律儀なのが多いようでできちゃっても結婚する割合は増えているし、中絶数、率ともに減少し続けている。ただ中絶数は減っていると言っても20万ぐらい堕ろされていたりする。

あとゲイ同士とかレズビアン同士の結婚が云々というのが議論されていて、そんな議論をちらっとみた僕には、婚姻届を出すのは勝手だし認めてられてしかるべきだけどその関係って婚姻関係にあるって社会から認められなければなりたたないものなの? て意見というか疑問が出てくるのね。

結婚の意義を先述の通り「産まれてくる子供の責任を負うため」にあると前提すると、ゲイやレズビアンは生物学上子供が出来ないから結婚しても結婚しなくてもどっちでもいいんじゃないの? とどうしても思ってしまう。好きにすりゃあいいし、社会からしたら畢竟どうでもいいので望むままにしてやりゃあいいと思う。なんでそんなに騒ぐのかわからない。

ただ、そう言うと「子供を望んでも出来ない」夫婦の問題が浮かび上がってきて、「お前は子供が出来ない夫婦に対して『子供のない結婚に意味がない』なんて面と向かって言えるのか!」って怒られそうなんだけど、僕がいう結婚の意義は「将来」できる子供のための線引きだから、今妊娠の可能性が低いもしくは無い夫婦であっても治療等々で妊娠の可能性が上がるもしくは出てくることが今後在るかもしれないからその時のための「結婚」だと言っていて、現在子供がいるいないはむしろどうでも良くて、今後産まれてくるだろう子供のために今生きている人間はどうしていた方がいいのかって話をしているつもりだから言い訳っぽく聞こえるかもしれないけど、僕が最初から言っているのはそういうことで。

だから子供を作らないと決めたいい大人同士の結婚とかも社会から見たらどうでも良くて好きにすればいいとしか言えない(まぁそれだったらそもそも結婚なんてしなくても仲むつまじく暮らせばいいだけで社会的な強制力を伴う空気を頼って愛情を固定化させているだけじゃないかなとは思うけど、そこまで踏み込むのは差し出がましいのでだろう)

とまあ色々こねくり回してきたけど、ある特定の女性に出来た子供のための結婚であって、その他それ以後の婚姻生活により生じるだろう価値観はすべてその上に積み重ねるものなのかなと。良いか悪いかも含めて。結婚してないんで知らん。

男からする結婚は「この女に出来た子なら何が何でも育てる」という約束だろうし、女からすると「この男なら私に出来た子を育て上げられるだろう」という期待を持って提案するものだろう。

アバターを見たので感想をば

公開が2009年なので7年遅れになるのか。やっと全部観られたのはAmazonプライムのおかげ。

宣伝はさておいて、本編の感想を。

いやはや、映像は凄い。話なんてどうでもよくなるくらハイファンタジー世界を映像化してて凄い。

突っ込みどころがない。ファンタジーって破綻がやっぱり目につくんだけど、それがなくて物語に没頭させることができるのはやっぱり映像先進国のアメリカ様しかできないんだろうな。

あと、大佐がかっこよすぎて濡れる。息止めて冷静に戦闘し続けるところとか惚れる。ランバラルを思い出した。

日本のアニメっぽいなと思うところが所々あって、全体的にはもののけ姫っぽいし、フィナーレの戦闘シーンで生物たちがヘリに襲いかかるところとかナウシカっぽいし、てかヘリのデザインが未来少年コナンで見たような形してるしで最高。

てかアバターを初めて操作するところとか神経シンクロ云々言っててエヴァンゲリオンぽいなとも思った。

人間辞めるところとかは攻殻機動隊っぽいし、歩行ロボなんてボトムズのスコープドックまんまやしで、なんか日本の傑作アニメのいいとこ取りして最高の実写にしてみましたって映画で度肝抜かされた。

日本ではできないことをしてくれてしびれるしあこがれる。

 

肝心な筋なんだけど、まずアメリカ人が作ったってことでインディアンを虐殺したことの反省なのかなと、やっぱりそういう目で見てしまう。

そういうのを抜きにして思い返すと、人間は徹底的に悪なのはちょっと幼稚かなとも思う反面、インベーダーはどうあがいたところで悪にしかならないということなのかもしれんなとも思うしで、うーん。

人間が侵略する目的が金オンリーで株主を満足させるためになんだってする感は現代の風刺としては効いてると思った。

それだけ現代世界が幼稚なのかね。現代世界が幼稚だから現実の鏡たる芸術は引きずられるようにして幼稚になるのかね。

で、自然と人間の付き合い方が主題だと思うが、そう見ると鑑賞者から見ると実にやっかいなことになる。

登場人物自身は新しい体を得て、フロンティアを体一杯に感じて「自然っていいよね!」って満喫して「それ壊す人間ダメ」って素直になれるんだとおもうんだけど、それを観てる僕からすると「お前人工生物の目を借りて見てんじゃん、それ全然自然じゃねえじゃん」ってなるし、人間辞めるところも実に機械的というか魂とか言ってはぐらかしてるけど、途中で無駄に死んじゃう博士が人間の脳以上に神経がどうたらこうたら言ってくれたおかげであの”絆”とか呼ばれてる神経リンクが機械のプラグを抜き差ししているようにしか見えなくて、マトリックス感はんぱねえなってなって「それって仮想現実じゃん」って感想がどうしても浮かんできて、そうなるともうこれが映画で現代のCG技術を駆使して作られてることを思い出しちゃって、最初の「自然っていいよね」って主題が嘘八百に思えて嫌になっちゃうから、映像凄い! 欲だらけの人間最低!って幼稚なところで落ち着かせるのが一番この映画楽しめるなって思えた。

結論、大佐かっこいい映画です。やっぱり筋肉やわ。主人公との初会話はベンチプレス上げながらじゃないとダメですよ。

 

読んでくれるなら、読んでくれるだけでこれ以上の我が儘な幸せはない

君を好きでたまらないのは君の微笑みがとても素敵だったからです。どう素敵だったかを言うと、これ以上美しい微笑みは無いといえて、それは多分この人の笑顔は何歳になってもその時々の素敵があるんだろうなと思えたからです。一時の美しさなんかよりも美しいと思います。

この笑みのためなら、多分僕はたとえ骨がきしむほど苦しんでも頑張れてしまうのでしょう。

その感情が強くなるごとに、僕は話せなくなってしまいます。僕は落語家さんやバーテンダーさんのようにウィットに富む話し方なんてものを心得ていないからです。そう思うと悔しい気持ちでいっぱいになって声も小さくなってしまいます。

本当はこの心持ちを素直に口で伝えられればよかったのですが、そんな言い訳が邪魔をして、今日もついにできませんでした。

それはむしろ君にとっては幸福というか、事なきを得る結果になったと思います。僕は生来からの日陰者で、本来は独りで生きることがこの世のためといった生き物ですから、日だまりのような笑顔をする君なんかには、たとえ取り巻きのひとりであっても在ってはならないような人間です。

だけど、どうしても僕はこれを書かずに終わることはできませんでした。静かに音沙汰もなく消えることはどうしてもできませんでした。そのことはどうか許してほしいのです。

直接、メールなりで送らないのはこのためで、気が向かないならそのまま捨て置いても大丈夫なように。

ただ、もし気が向いたなら、こんな踏みつけられるだけの雑草に目をやる心持ちがあったならでいい、そうであったなら読んでほしいという僕のわがままのせいなのです。僕の話はこれぐらいにしておきます。君のことで伝えられなかったことを最後かもしれないこの文章にしたためなければなりませんから。

君の話を聞いていて、僕はいつも感心していました。君はいつも周囲の人との関わりを大事にするからです。そのためかはわからないですが、君の周りにいる人は素敵な人ばかりのように思えます。君は日だまりで、そんな日だまりに優しい人が集まってくるのか、はたまた、君の目が良くて良い場所いい仲に飛び込んでいくのか、どちらかはわからないですが、なんとなく僕は前者の割合が多い気がしています。

人のことを素直に喜べる人というのはそう多くありません。今日、暗い気持ちで店のドアを開けましたが、来て良かったと帰りに思えたのは、君がそんな数少ない人の一人だと今一度知れたからです。今日も嘘偽りのない微笑みが顔をのぞかせていましたから。

昨今の価値観で言えば、金が絡む関係は成果だけを希求しがちですが、君の話す仕事にはいつも豊かな感情が息づいているように思えます。だから、一度話せた倫理にまつわる会話はとても楽しかったのは誠実さがこもっていたからなのだろうと、今にして思います。

お酒が好きなことも、タバコをたしなむのも、突拍子もない面白さも、嫌なことも笑ってしまえる強さも、些細なことでも大事につながることなら惜しみなく悩んでしまえる弱さも、善いことを素直に言えるところも、愛してやみません。

だから、僕は友達にはなれないと思います。君にいい人ができたとしたら、僕は多分素直に喜べないからで、そんなことでは真の友達ではないと思うからです。うわべの友達にはもっとなりたくありません。僕が望むのは、君が僕を選ぶこと只一つです。

答えが僕にとってよくないものであれ、ここまで読んでもらえたなら、僕が恐れることは、僕が執念深く君を追ってしまうと思われてしまうことだけですが、それだけは絶対にありません。井伏鱒二訳の「歓酒」ではないですが、さよならだけが人生で、僕の一杯はその意味です。それに僕が君を形作るものの中で最も素敵だと思っているのは微笑みであることを一度でいいのでこの節で思い出してほしい。

はなの笑みに影が差さない事だけを願って

ブログ始めました。

ツイッターの140文字制限だとどうしてもタイムラインあらしみたいな感じになって送信ボタン押すのが悪い気がしてて、まあそれなら長文でも書けるブログの方がいいかな、と思ってブログを開設した。

写真とかはinstagramに投稿するので、ここは文字だけになるんじゃなかろうかと思ってる。

僕自身の知的欲求傾向として地政学なり軍事学なり形而上的な推論とかが好きなのでそっち方面の話題が多くなって、読む人にとってはつまらないものが多くなるように思う。

一応呼んだ本なりブログなり鑑賞した映画美術等々、聴いて感慨深く思えた音楽などについてもその時盛り上がるであろうテンションでもって書くこともしばしばあるとは思うが、そんな状態でうまく文章という一表現に落とし込めるならもうとっくになんちゃら賞でも取ってると思うので、読みづらいことに変わりはないのかも知れない。

文章を書く理由として、第一義が僕の脳の劣化を遅らせるためであるから致し方ない。読ませる文章は本当の意味で脳、特に前頭葉な部分を刺激するので、そういった文章を書く方が良いのだろうが、小説をたまに書いてはののしられるような経験をしているので、脳の劣化を遅らせると言う目的に対しては幾分疲労が溜まりすぎるので、そこら辺は鑑みない。

第二義は文章を書くと雑然とした思考が形(情報)として表現されるので、筆者である僕自身も読者になることができて、つまりは僕それ自身を客観視できうるだろうという期待に他ならない。僕の身体をのぞき見るには鏡を持ってこなければいけない。一応脳のどこぞに磁気で刺激を与えれば幽体離脱を経験できるというエキサイティングな実験があるらしいがそんな器具は僕のワンルームにあるはずもないので、身体はすでにあるから写真なり鏡なりで映して見ることはできるが、その精神(精神なるものが在るかどうかはさておき)を見るには文章その他しかない訳で、僕は僕を表現するために旋律を奏でたり、絵を描いたりはできないので、文章に頼るほかないという次第。

ただ、じゃあ文章で自己を表現できるのかと問われれば畢竟わからないわけで、その表現された物が適当なのか不適当なのかを問わなければならないが、もうそうなるとめんどくさい。

こんな七面倒な事をわざわざ述べたのは第三義につながるからだが、射精と同じで、僕は男だからなのか、何かを放出すると気持ちよさが生じる気質がどうもあるらしく、今も雑然とこの文章を筆記しているがドーパミンやらじゅわじゅわ出ているんだろうなという感覚を覚えている。つまりこれは一種のオナニーでしかない。

第四義は、時間を費やすのにも多種多様な方法があるが、書くという行為が、他の「寝て過ごす」「テレビを見る」「本を読む」「映画を見る」というような受動的時間消費と比べて、その過ごした後未来から過去を俯瞰したときのしょうも無い人生送ってるな感が少々マシに思えるという経験則が僕にはあって、やはり受動的行動よりも創造的行動の方が世の中的にどうかはさておき僕個人にとっては有意義であるといえるから書くわけだ。ただ、創造的行動でも多種多様な方法があって、「絵を描く」「演奏する」「彫刻を彫る」「写経する」「花を育てる」といった時間消費方法を知らないではないが、書くことが他と比べて優位である点は金がかからないことにあるのだ。僕は日本列島の上で住んでいるが、日本列島上で生活する人間の中ではなかなかな低所得者層に属していて、その日本列島上でも有数の貧乏人のメッカに住所を持っているので、しかも身体が五体満足な上に社会的判断において精神も病気ではないと判定されるレベルの汚染度なわけで、つまり働かなければ生きてはならないと設定されているので、日本国政府からはびた一文も援助は期待できないとなっている上に、税金をちゃんと払えとの命令を粛々とこなす身分にあるので、なかなかに骨をきしませながら、我が暮らしが楽にならざりと指紋が消えた手を眺めているわけである。話を戻せば、絵を描きたいとおもっても画材を買う余裕がなく、さらにゴッホのように生活をさらに困窮させてまで絵を描く意欲もない上、ゴッホのように絵が掛けるわけでもないのでもしとち狂って一念発起で油絵の具なんてロフトで買ってきた日には画材がタンスの肥やしになるだけでなく、後におそうであろう喪失感は半端ないものになるだろう予想が容易にたつので絵は描かないとこうなる。そのような調子で音楽彫刻写経その他諸々は僕にとってはどれも高尚な遊びに思えるので、一番廉価で最もみすぼらしい割にはやっている感のある創造的行為である書くことを採択したわけだ。思うに、僕が後200年ばかし過去に生まれていて字が書けない読めない人生を送っていたらどうなっていただろうと思うと、どんなに憎らしい現代でも少々好きになれるのでこの思考展開はなかなか儲けものだと思っている。

こういうことを四の五の言って腐って死にたいと思っているのでツイッターでは役不足なのだ。こんなことをタイムラインで垂れ流しているやつがいたら一刹那(75分の1秒)の思考時間でフォローを外すだろうし、HTML情報をブラウザがレンダリングし終える前までにブロックは完成させ、流れるように運営に通報する事だろうと、少しは思ったが、よく考えるとそもそも興味関心がないのだからスマートフォンならば指を長めにスィ~として終わりな気がする。