ポッポ屋のブログ

喫煙者の日記です。

恋愛似非論考

結婚とはなんぞや? なんで結婚すんねん? って考えてて、うーんこんな感じじゃね? というのが出てきたから書いてみようかなと。

 

なんで結婚するんか? を考える前に「結婚」ていうときに「2人で暮らす」ってことと「制度」ということがごっちゃになってるからまず分ける。

 

「2人で暮らす」については結構簡単というか単純で、1,現代でも現代の一般的な生活(一日に3食とか清潔な身だしなみとか)一人分を一人で維持するのが難しいからというのが一つ。

もう一つが、2,風呂場で滑って転んで頭の打ちどころ悪かったら一人じゃ同仕様もなく死ぬからそれは困るな、というのが一つ。

 

1に関して補足。
1日にしなければイケない家事量を1とすると、働いている人1人時0.5ぐらい処理できる感覚がある。2時間あればなんとか維持できるけど、残業とか二日酔いとかで0の日も出て来る。
でも1日必ず家事量は1増加するから1日サボると次の日2になる、3日で3。

3だと6時間必要だからもう普通の仕事よね。休日が潰れるシステムがここに完成。

ただ2人になるともし1人が主婦or主夫なら毎日3処理できることになる。2人の家事量は1+1=2だから1の余裕ができる。
この余裕は好奇心さえあれば文化になる。

共働きの場合でも2人がどっちもバリバリ働く感じだったら家事量が2でその処理量は0.5+0.5の1でしかないからあんま変わらんけど、共働きの大部分は片方がさっきの余裕分を労働で換金している状態だから毎日処理量が2を維持する計算になる。

 

2に関しては補足いらんだろ。

ここまで恋愛のれの字も出てきてないことに注目すると、なるほど結婚とは恋愛とは無関係じゃないの? と言う仮説が僕には出てきた。

 

次に「制度」としての結婚に関して。

 

結婚すると国から結婚というのはこういうもんだからこうしなきゃならん! と2人の関係は義務になる。

その義務が、「名字は一緒の使え」「同居しろ」「助け合え」「浮気すんな」「夫婦になってから得た金は共有しろ」「かかる金は分担な」というところで、あと「誓い合った仲なんだから契約とかいつでも取り消せるぜ」って権利もあるのが面白い。

とまあ色々あるんだけど、名字以外って離婚のときどうすんのってところからの発想だとおもうのね。だからここでは割愛。

 

ただこれ以外に制度としての結婚の機能を考えると「誰の子かを戸籍上確定させるため」というのが出てくる。

僕はこの「子」という存在をどうするか? というところに制度としての結婚があると思ってる。
(「名字」もそれで「田中高橋しんいちろうです、よろしく!」なんて面倒この上ないしね。「田中高橋しんいちろう」と「鈴木橋本るる子」が結婚したら「田中高橋鈴木橋本しんいちろう」になるんだろうか。武田信玄の名前より余裕で長くなりそう)

生まれてきた子供全員をDNA鑑定する時代はまだ当分さきなので、誰とセックスしてできた子なの? というのは実際問題結構ブラックボックス
個人間というか気持ちは信頼とかetcでどうにかこうにか「うちの子」ですとできるんだろうけど、他人からしたら気持ちなんてどうでもよくて「そんな適当なん困るわ、種違いやったらどうなんねん」ってなる。
そこで、婚姻ってのが重要になる。
「妊娠発覚→夫だれやお前か→その子はお前のやろ多分」ということでめでたく子の責任を夫は負えることができると。

もし、種違いとしてもとりあえず夫の子としておいて、不服なら訴訟で決着つけると。そのときにDNA鑑定でもなんでも好きにしてということになる。

結婚て便利なんだね!

調べるとおもしろい。
この「お前の子な」って決めつけられるのは婚姻関係200日経ってから生まれた子についてらしい。(これを推定された嫡出子という)

じゃあ「できちゃった婚」はどうなん? となると出生届だすと普通に受理される。(この場合推定されない嫡出子という)
ただ違うのがさっき話した訴訟のとき。
推定される方は法律上の夫しか「俺の子じゃない」と訴訟できないし、出生を知ってから1年限定。
推定されない方は夫、母、子、実の父親など利益のある人が訴訟できる。しかも無期限。
つまりできちゃった婚だと遠い将来大成功を収めた夫が死んだあと相続とかで苦労するかもという話。

 

で、ここまで長いこと話しててなんだけど、恋愛なんて感情は一ミリも出てこないね!

つまりは結婚=恋愛結婚と考えるから難しいしややこしいんじゃないのか? という疑念が出てきた。

恋愛は恋愛。結婚は結婚。恋愛と結婚は別物。
恋愛と結婚の違いとか比較したり関連付けるからややこしくなる。

恋愛の延長線上に結婚はそもそもない。そもそもない話はしてはならんのだ。

ゴースト・イン・ザ・シェルを観た


『ゴースト・イン・ザ・シェル』 本予告

 

テーマ詰め込みすぎ。

薄っぺらすぎたけど、街並みとか画はやっぱり実写、見ごたえがあった。

結論としたら頑張って作ったMADだなという印象。

 

監督さんが元の映画をリスペクトしているんだろうなと、アニメ版の攻殻機動隊シリーズの名場面と同じ構図のシーンが盛りだくさんでそこら辺は今まで作られた映像版攻殻機動隊をところどころ思い出せてなんか旧作を見直したいなという気持ちにさせてくれたのであれは尺が2時間のCMだったんじゃないかって思った。

その尊敬心が原因かは知らないけど、アニメ映画版攻殻機動隊GHOST in the SHELL とか続編のイノセンス、テレビアニメ版のSACとかのそれぞれ持っている主題は、形而上学的でその中でもかなり重たい部類に入る大主題だと思うんだけど、それを2時間でやってしもうてるとこがあるように思えて、観終わって「なんじゃこりゃ?」感が沸いておこった。

「自分たらしめることとは何か?」という問いがあると思うんだけど、実写版ゴースト・イン・ザ・シェルでは語り尽くせてるとは到底言えないと思う。

 

僕は攻殻機動隊が昔から好きで、なんで好きなのかというと、ghost in the shell というようにghostつまり魂というか自分というかそういうモノorコトがshell機械という機械つまり量産品・世界に複数存在できるモノに包まれているという設定・仮定から導き出される、自己を確定し得るモノ・コトとは一体なんであるのか? という疑問が沸き起こってくるからで、なんか思考実験的な面白さと自己を確定しうるモノ・コトとは一体何であるか? という疑問それ自体への好奇心が相まって、映画や小説や音楽でもいいんだけど、そういった表現・表出群の基盤たる主題それだけで飯が何杯でもいけるのね。その上にあの押井節というか画としての情報量に制約があるアニメーションゆえか、台詞(言語)に頼っているせいでより思考が深まる気がしてもっと飯が食える感じになってるのね。

 

その観点から言うと実写って画に情報量が多いから語らずとも表わせ的な慣習というかあるから、台詞が説明調というか不自然というか舞台調というかそんなだとマイナス点になってしまうのが、まずもってハンデとしてあるなと。

加えて、監督というか脚本というかが、上で言ったような疑問をちゃんと自分の考えとして噛み砕けているのか、噛み砕けていると仮定してもそれを表出できるのか、それは言語に頼るほかないのか、実写映画という表現方法で行うべきだったのか、というところまで咀嚼した上だったのか? という疑問は観終わったあとの感想として確かに僕にはあった。

で、僕の結論としてはそこまでの咀嚼はできていなくて、最悪元のアニメが好きで実写にしてみたかっただけだったんじゃないかなと思った。だから頑張って作ったMADという評価になった。

ドント・ブリーズ観た

 

 これ。

 

盲目の退役軍人であるクソジジイの家から脱出するだけの映画なんだけど、PV観た時点からこれはもうおもろいっすわ感があって、実際観てみたらやっぱりおもろいっすわ。

 

Don't breathe 息すんな言うんやから息をのむ作品なんだけど、あれね僕ひねくれもんやからそう言われたら意地でもビビらんぞと思うんやけど、気づいたら息止めてたね。

 

なんというか、ジジイが怖いんすよ。

こんなマッチョなクソジジイどこで見つけてきてんていうぐらいジジイがイカしてるしイカれてる。イカレ方がかなりぶっ飛んでたお陰で話としてもおもろいというか一個深い感じになってて、そこが良かった。

 

あと、実際本編たる家の中に入る前にすごく感じたんだけど、画がすごいコントラスト効いてて面白かった。

エッジが効いてるというか。

これがこれからはじまる怖い夜の舞台ですよぉ〰って家を映すシーンがなんかゲームのOPっぽさがあって。

あと、真っ暗シーンね。目をこれでもかって見開いてるとこ。そうなるそうなるみたいなリアリティあって怖かったなあ。

盲目のジジイも「welcome to my world」みたいやしなんかね。

 

最近あれね。観る映画当たりが多くて嬉しいっすね。

プレミアムフライデーなんて始まってんのな、クソやな

経団連日本国政府が推進喚起してるってところでダークなイメージしか思い浮かばないね。

 

月末金曜の就業を15時上がりにしよう=プレミアムフライデー、だそうで。こんなこと言い出した理由が「消費喚起」だそうで。

 

消費換気したいなら消費税なくせよ。消費するのに税金かけられてんだから消費冷えるに決まってんだろ。なんでプレミアムフライデーなんてわけわからん小手先の解決策しかしないんだよ。消費税廃止しろ。

 

多分、働きすぎが問題になってるからこういうこと言い出したんだろうけど、そもそもなんで働きすぎてるかって言ったら雇用者が労働基準法をろくに守ってないからだろ。なんで守らんかって言ったら守らんでもお咎めないからだろ。なんでお咎めないかって言ったら咎める機関が機能してないからだろ。なんで機能してないか、労基の人員が足りてないからだろ。まずは労基の雇用増してバンバン摘発&逮捕しまくったら勝手に休暇増えるよ、多分。

何もかも忘れそうなので思考を整理しないで表出しておく

チラ裏、日記でしろ。

 

モンテーニュがエセーの中で、死から目を逸らしてはならない、それは後ろを向いて歩いているようなもので道から逸れて目的地にはつけない、というようなことを言ってる。僕もそれに習って見たい。

 

色んな死がある中で僕が引き受ける死はたった一つであることは間違いない。

病死、事故死、自死や、水死、圧死、焼死など様々な中の一つだけ迎えることになる。

 

では僕はどう死ぬのか? を考えたところで自分の死ほど予測不可能なことはなく、どんな死を望むか? ということを見つめながら生きろとかのおっさんは言ってるのだと理解している。

武士は死ぬことと見つけたり、葉隠ではそう語られるが著者は畳の上で寿命を迎えて死んでいるので、理想の武士像通りには死ねない平和な江戸期に生きてしまったことを呪っていたのではないかと思う。

 

モンテーニュは武士でなくとも生きることは死ぬことと見つけたわけでまぁ大体似たようなこと言ってるのだと思う。

どう死ぬべきか? という問いの各々各時代各場所での答えはそのままその文化を象徴するのだろう。

 

例えば、現代の日本人ならどうだろうと考えるに、おそらく英雄的な死を望むよりは自宅のベッドでボケることなく老後の最中、寝ているうちに痛みなく死に家族に見守られているのが望ましいと考えるのではなかろうか?

 

これはまさに葉隠の作者の死に方に違いないが、葉隠の時代にはそれを良しとしなかったのを見るに先の文化に強い影響を受けることを僕は疑えない。

 

先ほど、現代人の死に方について例えを出したが、この例えは適切でないように思う。実際の多くの現代人は死を意識しないことが特徴に思うからだ。

 

現代人はひどく死から遠ざかっている。身内が何かしらで死ぬまで死に直面することはまぁ稀であるし、映画のスタンドバイミーみたく小学生時分に森の中で死体を見つけるなんてことは滅多にない経験だろう。

 

僕が考えるに思考は記憶の想起の無秩序な連なりに生まれると考えていて、死の記憶がない人間は死について考え始めることもない、と考える。ただ非現実において、例えば小説なり映画だが、そのような媒体に死は語られていて、もちろんその架空の死が自分の死まで繋げられる想像力豊かな人間であれば、そこから死を見つめるに至るのかもしれないが、往々にして自分の死を想起できる人間は少ないように思う。ただクオリア問題や哲学的ゾンビの例をあげるまでもなく、直接観測できるものではないしましてや統計を取ることもできない仮定ということは留意しなければならない。

 

ではなぜ自らの死を想起できていないと論じられるかを言えば、社会において噴出している諸問題、それらおしなべて見ればそのように推論できると思ったからに他ならない。

 

我が国の安全保障問題を例にあげれば、わかりやすく思う。憲法9条の第2項はその他戦力これを保持しない、となっている問題である。これが改正もしくは撤回されずにこのまま現在もあるということは、96条において定められているのを逆に読めば国会議員の3分の2以上が9条に賛成しているし、また半数の国民もまた賛成しているということに他ならない。だが僕から言わせれば向こうは銃をこちらに向けていてこっちは丸腰で戦おう話し合おうなどというのは自殺行為であるかもしくは死を恐れない狂戦士かもしくはそもそも状況を理解できない狂人のいずれかだろうと思う。ここで話合い、つまり外交的解決の補足をするが、銃を向けられていてその銃を下ろさせようとするとき話し合おうというのにこちらも銃を向けていては解決せず平行線を辿るからこちらから銃を下げて敵対する意思はないと表明することが肝要だ、との意見を目にするが、それは映画の見過ぎだと言っておきたい。それは個人間であるか、また警察機構の下に対象者がいるから成り立つ解決策であって、世界の警察がない、無理だと分かった現在ではこちらから銃を下げるのは有効な手段でない。そして、最大の勘違いは平和をどちらも銃を下ろした状態だという誤認であって、国家間において現実にあり得る平和は先ほどの例の中の違いに銃を向けあった状態での平行線であることを再認識すべきなのだ。この平行線をいつまでも維持し続けることこそウェストファリア体制以降の平和秩序の基本的な姿であることを承知してもらいたい。軍縮の果てに第二次大戦が起こったことをもう一度振り返るべきだ。

 

他にも例を挙げよう。僕らは病が治らなかった時、治療に携わった医者を無能とののしることがある。なぜ罵るのか。医者が目的を果たせなかったからだ。僕らは仕事を片付けられないと怒られる経験を日々繰り返し、仕事で目的を果たせないことはいけないこと有り得ないことと思っている。だが人が人の生き死にをどうにかしようとすることそれ自体果たし得ない業なのだと理解するべきで、他の仕事の目的とは一線を画している。そのこと抜きにして誰のせいでもない病の死を担当医のせいにするのは、死が軽んじられている証左ではないか。

 

他にも例を挙げよう。高校三年には将来の進路を指導される。ここでの進路とは卒業後もしくは進学先の卒業後に就く「仕事」を指している。なぜ仕事なのか? 将来の夢を語るとき人はやはり仕事をあげるだろう。ケーキ屋さんとか。唯一例外は専業主婦だがこれも昨今では「主婦業は年収に換算すれば…」と言われることからも仕事と見なされるようになったと言っていい。なぜ仕事なのか? なぜどう死にたいか? ではないのか、なぜ何を成したいか? ではないのか。なぜ進路指導の際、女に子供を産み育てたいというオプションが挙がらなのか?  現代日本人の思想の限界が金で全てだからだ。志が金になるか? いや、ならない。子供が金になるか? いや、2000万円の負債だ。結婚が、恋愛が金になるか? いや、金がかかって仕方ない。これが現代日本人の限界なのだ。なぜ金に固執するか、生きている間しか考えられないからだ。あの世にまで金は持っていけないことは誰しも知っている。これも現代日本人がいかに自身の死に疎いかがわかる証左だ。

 

他にも例を挙げよう。民主主義な割には投票率が低いらしい。人は政治に興味がないという。なぜ興味がわかないかといえば、政治は私の生活に直結しないからだという。投票すれば電車が止まらないようになるのか? 投票すれば彼女ができるのか? 投票すれば職につけるのか? 風が吹けば桶屋が儲かる方式で想像力を膨らませれば投票すればそれらの願いが叶う可能性が上がると言えるだろうが、こう言った瑣末なこと以上に投票しない原因は将来について何の展望もないことを僕はあげたい。そもそも政治はこの先どうしましょう? という問いに答え続けることであって、今現在でしか生きない鳩レベルの人間にはそもそも思考に上がったこない。この街を大きくしたいから高速道路や新幹線を通しましょう、とかどうでもいい人間ばかりなのが現代日本人なのだ。「高速道路? そんなの敷いて本当に景気が良くなるのか? わからない、わからないことはするな!」というのが現代日本人なのだ。何がわかるか、算数はわかるらしい。政府は借金が多いらしい、借金は返さないとダメだ、が現代日本人なのだ。将来、投資、未来技術、これら不確かなものがどうなっているか予測まで言わずとも、望むこともできない現代日本人がどうして政治ができるのか? 民主主義がいいと言っている人たちには是非とも答えてもらいたいところだ。

 

死から如何に現代日本人が遠いところで生きているのかを諸所社会問題を列挙していることをここで再確認しておく。

 

例を挙げよう。

出生率が下がっているらしい。先進国は基本的に出生率が下がる傾向にあるが、日本はバリバリ下がっているらしい。なぜ下がるか? 婚姻率がさがっているからだ。なぜ婚姻率が下がるか? 金が安定的に稼げないからだ。将来安定的に食っていけるかわからないぐらい今が貧しいから結婚しないのだ、という。この論は経済評論家の三橋貴明氏や藤井聡先生などの意見から得たのだが、僕はもう少し心的哲学の領域に足を踏み入れてみたい(どうでもいいチラ裏なんで好きにする。)同僚にベトナム人がいるのだが24歳で子供をすでに儲けている。バイトなので決して安定的とは言えないが結婚もして子供もいる。こういうことを考えると、「今お金がない」ことによって「将来もお金がない」と予測して理性的に結婚を控える(結婚したいがしない)のではなく、そもそも結婚に価値を見出せないから、もしくはもっとひどく結婚それ自体想起していないのではないかという危惧さえある。要は結婚や出産や育児が二の次で社会的に要請されるものとして認識されていることがうかがえる。だが結婚や出産や育児は社会的に要請されるものでなくいたってプライベートな個人間的な行為にも関わらず。なぜ、プライベートな行為が社会的なことに移り変わったかを考えるに、自分がどう死ぬのか? という根源的な問題を想起できなくなったからに他ならない。独りで死にたくない、誰かに死を見守られたいと考えるなら、家族を作るか、母より先に死ぬ以外ない。母より先に亡くなることは母の誰かに見守られる死を奪うことだからやはり自分も子にそれを行ってもらいたいとそう願うのが自然であろう。例えば北海道に住んでいて誰とも知らない人が沖縄で死んだとして誰が葬儀に駆けつけるか。

もっと単純な環境を想定するなら野垂れ死なないように家族を形成しようするだろう。より長く生きより良い形で死ぬために結婚などをして家族というものを形成することは誰しも考えうる解のひとつなのだ。だが現代には家族を形成するほかに、生涯独身であっても、入院して死ぬとか社長になって部下に看取らせるとか様々なオプションが用意できる余地があるだろうが広く一般に容易い方法として家族はいまだ有効であることは疑えない。ひとつに突然な孤独死を想定すればいいが、プライベートな空間で突然訪れる孤独死による死体の放置を回避するにはプライベートな空間に毎日誰かが来ることが条件になるが、プライベートな空間に毎日出入りできる誰かを例に挙げようと思っても家族以外のいい回答はなかなか一般人には想定しづらいのではないか。また、死んだら自分がどうなろうと無だからどうでもいいというものがある。まず、死んだら本当に無なのかは誰も知り得ない。地獄にいく、審判を受けると同等の正当性でしか死以後は無と言えないことを考えればまずそんな気は起きない。いや、やはり死以後は無だ! と死以後は無教に入信しているとしても、なぜその場で死ぬと確信できるのか。もしかすれば死の淵から帰って来られるかもしれない瀬戸際、その可能性を限りなく小さくするのは中々に愚かだと僕は思う。いや、費用対効果が、そんな一瞬、残り少ない人生一年や二年変わりはしない、というなら、僕はこう答える。なぜそれが70や80を想定できるのか。それは明日かもしれないのだとなぜ考えられないのか。まさにここに死を考えない最大の問題が突きつけられる。なぜ遠い将来にしか死がないと考えられうるのか? 繰り返しになるが死はいつどこでどのように訪れ、またどのような状態になるかが誰にもわからず、死に対して今生きる私たちができることは理想の死という着地点にできるだけ近くにランデブーするような生を送るしかない。そのためには死を見つめなければならない。なぜなら自分が死ぬことからしかどう死ぬかを描きようがないからだ。今日と同じように明日もまた目が醒めるとは言えない。そういう立ち位置から現代日本人の生を見れば、その幾人が、「まだ死ねない」と言える生を送っているかは甚だ疑問であると断じずにはいられない。 

「何者」を観たので感想をば

nanimono-movie.com

これね。

なんで映画のサイトってこうもギミックで重たくするかねせっかくおすすめしたいのにサイト見るだけで行く気なくすじゃないかこのサイト先に見てたらたぶん映画館行ってないぞい。

 

そんなんはどうでもいいとして、本編についてちょいちょい話したい。

学友からの薦めでこの映画をみたわけだけど、観て居てわき起こった感情は不快そのものだった。

始終不快でもし一番前の席で観て居て席を立っても迷惑がかからんようにさっと出て行ける席ならたぶん中座してそのまま映画館を去っていた。それくらい感情を締め付けるものがあっていい作品だなと思った。

今を映し出せているというか、いやすべてひっくるめて映し切れてはいないんだろうけど、ある側面はしっかり映し出せていて、そういうのとんと触れていなかったなと思ってやっぱり芸術は現実の鏡たれと再確認できたので観に行って本当に善かったと思ってる。

就活生という題材を使って空想段階と創造段階の違いを問うた作品なのか、まあ自己評価はいいから形にして他者の評価にさらす土俵に上がってきなよ、話はそれからだ的な話なんでしょう。

ただ創作は直ちに評価に晒されるべきというのはどうなんだろう? 空想にしたままでもいいんじゃないのか? 個人に対しなんでこうも周りが一生懸命になることを強要するのかがわからない。愛してもないのに。

 

以下蛇足。

「頭の中にある内は全部傑作」だかニュアンスは違うだろうけどそういう台詞が劇中にあるし「自閉」に対してこの作品はアンチの立場だと思う。

「自閉」はテーマとしてかなり重要で頻出しているホットなキーワードだと僕は思っている。

 

何かにつけて最近は「自閉」がキーワードな気がしていて、脳は有機的な繋がりを持って電子的な情報を伝播させてるが、言語的なやりとりで持って外部に拡張できるというのも脳の可能性であるわけで、そうなれば社会や都市というのは一つの大きな脳と解釈できなくもないので自閉とはその観点から見ると決して自立や自由ではなくて機能不全、もしくは暴走と捉えることができて、こういった異物は取り除こうとするのは結構自然な振る舞いなのかもしれない。

ただ自閉した方からしたら他が異物であるわけで、本来は抗争する場面なんだけど、それをしないしたくないできないから自閉モードを解除するか死ぬかするまで苦境に立たされる。そんな存在を他は観測するから、僕たちもいずれはあのような境遇に陥るのではないか? という疑心暗鬼を理由にこの自閉した個人を煌びやかな言葉を使って保護しようとするんだろう。

同一の母語を使うもの同士は広く言えば身内な訳だから、自閉ではなく環境に対し堂々とNOをつきつけりゃ良いんだけど結局はやらない。何言ってるかわからんようなってきて飽きた。

 

今でも感動したなって思い出せるもんを思い出せるうちに記録して置こうと思った

ジャンル色々順不同

/ King Crimson - Epitaph


Epitaph (King Crimson) + scenes from Home (2009) documentary on a world out of balance

21世紀いかれたやつも感動したけど、なんかこっちのほうが印象深かった覚えがある。

多分、ハマっては捨てを三回くらい繰り返してると思う。

そのうちの一回は映画の「バッファロー66」でボーリング場でのダンスシーンでMoon Childが流れたせいだったはず。

Luciano Pavarotti - Nessun Dorma


Pavarotti - Nessun Dorma

大体こういう音楽で僕がハマるころにはその人死んじゃってるのよね。だからCDだったりこんなYouTubeで、しかもクソみたいなスピーカーで聞いてるもんだから、生で聞きたいと思うわけ。

で、その中でも特に「生がええなあ」って憧れたのはこの人。

だから覚えてる。

/ Queen - Somebody To Love


Queen - Somebody To Love (Official Video)


Queen - Somebody to Love [High Definition]

歌詞も相まって年々好きになっていくのよね。だから忘れたことないし、何回聞いたかわからんぐらいは聞いてる。

第二節のI work hard...からサビまでの歌詞はなんかね。自分と重ねちゃうんよね。

この人も死んじゃってた人なのよね。僕はライブって嫌いな人(なんであんなギュウギュウで息苦しいとこにいないといけないのか)なんだけど、聞きたかったなと。

なんかあれやな外国人ばっかやな。

 

/ 尾崎豊 - 米軍キャンプとダンスホール


尾崎豊 ダンスホール(オリジナルヴァージョン)

 


尾崎 豊   米軍キャンプ

 尾崎豊聞き出したのは中学の同級生に薦められたからで、というよりそれまでは僕にとっての音楽って何処かで流れてるBGMでしかなかったのよね。流行ってるから聞くとか。

その時にダンスホールが特に気に入って、そこで歌われてる女の子が米軍キャンプの女の子だって知ってから米軍キャンプをより好きになったのも覚えてる。

音楽ばっかやな。

/ 莊子 - 莊子の内篇

荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

 

 高校の図書室の動く書棚を動かすのが大好きで、レバーをぐるぐるして遊んでたときに見つけた本。こんな新書じゃなくて中国思想集の一つだったはず。借りたやつ一人もいなかったはず。

最初の方に鵬っていう馬鹿でかい鳥の話が出てくる、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやって一節のくだりで、僕らが空を見上げれば青いように鵬もまた青い地上を見下ろしているんだ、って語ってて莊子さんすげえなと。ガガーリンなんて目じゃないなと思ったのを覚えてる。人間の想像力ってすげえなって。

思想にもすごい影響受けてると思う。古典哲学で言うところのディオゲネスみたいなとことか、無用に思えるのはお前がそれを有用に思えない無能だからだってとことか。

 

/ ジュゼッペ・トルナトーレ - ニュー・シネマ・パラダイス

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]

 

 この監督の作品群は大体好きでよく見てた。

じじいがトトのためを思って島から追い出すのが好きで、こんなところにいたら腐っちまうってのがすごい共感したのね。僕の故郷もくそだから。

また戻ってしまったけど。嫌な気分。

海の上のピアニストもよかったなあ。

やっぱ映画はおもいだすな。

 

/ ど忘れした、誰やったっけ監督 - タクシードライバー

 なんか知らんけどおかんが主人公が着てるジャケットと同じやつ僕に買ってきたのを皮切りに、なんか縁がある。

陸自に入って出てきてたり。主人公軍隊上がりなのよね。モヒカンはさすがにしてない。殺したい人もおらんし、英雄に憧れもしてないからかも。

 

/ 立川談志 - やかん、芝浜、紺屋高尾

談志が死んだ。

結局のとこ実際には見てないんで語れっこないってのが悲しい。やかん面白いなあ、ほんと面白い。

一番大きい動物知ってる?
象だよ
もっと大きい動物がいるんだよ
もっと大きな象だ 

ってくだりからの思考ストップは早いほうがいいんだってセリフ好き。

url貼り付けんのめんどくさくなってきたからやめる

/ 高橋留美子 - めぞん一刻

半年ぐらい前になるのか、名前忘れたベースうまい丸坊主の人と漫画で五本指に入るのはって話題でイノイチに上がったから思い出した。

どっかのブログで物語内の時間の速さと現実の時間、連載の速さが同じって意見を目にしてびっくりした(五代の七年かかった恋を読者は連載七年ごしで目にするという意味)

僕が学生の頃してた居酒屋のバイトで同じキッチンで働いていた人とめぞん一刻が一番おもしろいって話したの今でも覚えてて、めぞん一刻の話をするとこの人のことを思い出す。仙台まで会いに行ったことがあってその時東京出て来るって話してたんだけど、もう何年も前のことやから、うーん、元気にしてるんかね。

 

/ 士郎正宗押井守 - 攻殻機動隊 Ghost in the Shell

人が人であるために多くの部品が必要なように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なのよ

だったっけ? バトーとお船の上での会話。まぁそんなセリフが見て以来ずっと脳にこびりついてる。

ここで思い出したのは最近に触れたGhost in the machineって誰かの概念のせいだと思う。

生きる上でどうでもいいってくくっちゃってもいいんだろうけど、どうしても考えちゃうよね。自分とは何か? とか魂はあるのか? 精神とは? 脳が全部解析されたらそこにGhostはない証明されうるのか? とか。

 

/ amazarashi - 夏を待っていました

大学の数少ない友人のひとりに教えて貰ったバンドで、この曲は特に覚えてる。歌の一節で友人の自死に触れてるんだけど、僕の幼馴染も高校一年の1月27日に死んだからいやでも覚えてる。

歌ではそんな勇気なら持たないほうがよかったって言ってるから多分悲観というか死なないほうがいいって立場なんだろうけど、僕ももちろんそうは思ってたけど、最近わからんのよね。

なんで生きてるのかって言えば、飯食って寝てたら生きてるって話で、必ず人は死ぬんやからそれが早かろうが遅かろうが大した差はないように思えてるし、生きようとするとすこぶる疲れるは嫌な気分になるわで散々やし、一瞬ものすごく痛いの越えたらあとは無っていうなら死ぬのも悪くないと思えてくるのよね。

みんな必死に新しい価値とか技術とか云々作り上げてるけど、作り上げるたびに善いことの最大値が上がる一方で悪いこと悲惨なこともまた最大値が上がってるように思うから、結局0サムじゃね? って相対論に落ちるから、うーん。昔の戦争やと100人死んだら結構えげつなかったけど、第二次大戦やと何千万なわけで。なんか自由とか民主主義でより悲惨だよなってどうしても思っちゃうのよね。

子供欲しくないって彼女もいない男の僕が偉そうによく言うんだけど、その理由で子供が怖い、子供を教育するなんておこがましい、ってのを上げるんだけど、根本はこの先日本で生きていく子供って悲惨だよなっていう考えがどうしても拭えんからなのよね。

生まれなきゃ生きるつらさも死ぬ不可思議さ怖さにもface to faceしないですむし。

話を元に戻して、幼馴染の死についてもっと本質、独善的な意見をいうと、彼が僕に死を見してくれたお陰で、僕は死というものがすこぶる怖くなって、自死を選ばずに今生きてしまってるって観念があるのね。

まあいいや、次。

/ Charles Leroux - 抜刀隊

教育隊の観閲行進で流れた曲でその時歌はなくて伴奏だけだったので、歌詞には特に興味ないです。

かっこいいんよね。音楽隊の人が演奏してくれてはったけどかっこよかったあ。敬礼もびしっとしちゃうよね。背筋がぴんとするというか。

やっぱ人と一緒に生きてるのが楽しいんよね。さっきの落語の世界の長屋ぐらしとか冬クソ寒いんだろうけど、なんだかんだで楽しかったんだと思うよ。振り返って楽しかったときっていつやって言ったら、大学のとき高校の連れ3人と同じアパートだったときだし、文字通りタコ部屋8人の教育隊のときだし。なんも生産的なことしてないし、クリエイティブでもなんでもなければ、金も全然ない、酒もほとんどなかった。

/ 一度飲んだウイスキーでものすごいフルーティーな味のするやつ

全然覚えてないやんってつっこまれそうやけど、名前が思い出せないというか聞いたかすら怪しいだけであって、味とかその他感覚ではちゃんと識別できてるんであしからず。

ホテルのバイト先でフェアだかなんかで試飲したウイスキーなんだけど、ほんまぶったまげるぐらいうまかったのよね。

なんか苦いだけで薬みたいで喉が焼けるのがウイスキーって思ってたんだけど、やっぱりうまいからみんな飲んでるんだなって思わせてくれたウイスキー

もう一度飲みたいと思ってて、近くのバーでバーテンダーの女性に相談しながら探してるんだけど僕の表現力が乏しすぎて一向にわかりません。せっかく知識のある人が近くにいるのに残念無念。

 

/ そのホテルのバイトで食べさせてもらえれた洋梨を赤ワインで煮たものにジェラートを載せたデザート

今度はコースのデザートだから名前がないというか、洋梨の赤ワイン煮なんちゃらジェラートを添えて、みたいなまんまの名前だからあしからず。

ジェラートはどうでもいいけど、洋梨がこんなにうまいもんだとはつゆとも知らんかったから、強く覚えてる。

この時以外に洋梨を赤ワインで煮たものを食べたこともないし、ましてや洋梨自体も食べてない。

食って思いの外覚えてるもんやね。さっきからもはや連想ゲームとかしてるこの記事なんだけど、視覚が80%とかいうけど記憶としたら僕にとってはそれほど重要視されてないのかもしれない。

まあ映画とかもっと出てるんやけど終わり見えなさそうやからやめにしてるからまたの機会にでも。

/ ムーンライトブラックティー?

紅茶に最近はまってる云々がこの前の記事でそれが半年前になる。これが面白い味というか香りというか、まあそんなんで、探してはいるものの、今は有名所に探りを入れてる初心者なので再会は当分先なのだと思う。

この紅茶はついでというか、その日のメインは僕の大好きなフレンチトーストを食べることが目的やったんやけど、そのフレンチトーストについては一切覚えてなくて、その状況やら僕が頼んだフレンチトーストじゃない違うトーストのほうが美味しくてなんか悔しい気分になったのとかそういうことのほうが強く覚えててなんだかなー。

てかいつになったらホテルオークラのフレンチトーストを食べる機会が訪れるのかっちゅう話なわけで。

/ Charles Chaplin - The Grate Dictator 独裁者

この映画どうのこうので覚えてるってわけではなくて、高校の英語の授業で幾つかの文章から選んでそれを暗唱するってのがあって、僕が選んだのがこの映画のいちばん有名な独白するセリフだったので覚えてる。この記事を書いてるまさに今、出だしを覚えててびっくりしてる。

昔は孔子さんの教えを幼稚園児ぐらいから暗唱させてたみたいだけど、そういうこと今でもしてたほうが良かったとおもうんよね。なんでやめちゃったんやろ。わけわからどこの馬の骨かわからん歌手が歌うくだらん当たり障りのない詩ばっか子供が子供心に勝手に覚えてさ。自由自由っていうけど僕には子供がどうでもいいようにしか見えないし、子供に何を教えたらいいのかわからない大人にしか写らんのよね。T・S・Eliotとか無理矢理にでも覚えさせてくれてたら良かったのにって思う。覚えてるの億兆京から無量大数までの単位くらいなもんなんが悲しい。あ、平家物語の冒頭は言えるな。

 

/ 鴨長明 - 方丈記

言えるシリーズで思い出した。もはや覚えてるとはいえなくなってきたのでもうやめにする。

淀みに浮かぶ泡沫は 云々。お前はヘラクレイトスか。

この本読んで一番の感想はこんな暮らししてえなあって憧れで、世の中離れてひっそり暮らして、クソなことをクソだっていうの超楽しいと思うんよね。

世の中離れた人にサリンジャーがおるけど、あの人は家の周りに塀を作って外界をシャットアウトしたのよね。そんな人がライ麦で子供に言わせてるのが「ライ麦畑の崖っぷちで遊ぶこどもが崖から落ちないように見張っていたい」ってのはなんとも切ないなぁて時代も国も全く違うこと思い出してた。