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ポッポ屋のブログ

喫煙者の日記です。

何もかも忘れそうなので思考を整理しないで表出しておく

チラ裏、日記でしろ。

 

モンテーニュがエセーの中で、死から目を逸らしてはならない、それは後ろを向いて歩いているようなもので道から逸れて目的地にはつけない、というようなことを言ってる。僕もそれに習って見たい。

 

色んな死がある中で僕が引き受ける死はたった一つであることは間違いない。

病死、事故死、自死や、水死、圧死、焼死など様々な中の一つだけ迎えることになる。

 

では僕はどう死ぬのか? を考えたところで自分の死ほど予測不可能なことはなく、どんな死を望むか? ということを見つめながら生きろとかのおっさんは言ってるのだと理解している。

武士は死ぬことと見つけたり、葉隠ではそう語られるが著者は畳の上で寿命を迎えて死んでいるので、理想の武士像通りには死ねない平和な江戸期に生きてしまったことを呪っていたのではないかと思う。

 

モンテーニュは武士でなくとも生きることは死ぬことと見つけたわけでまぁ大体似たようなこと言ってるのだと思う。

どう死ぬべきか? という問いの各々各時代各場所での答えはそのままその文化を象徴するのだろう。

 

例えば、現代の日本人ならどうだろうと考えるに、おそらく英雄的な死を望むよりは自宅のベッドでボケることなく老後の最中、寝ているうちに痛みなく死に家族に見守られているのが望ましいと考えるのではなかろうか?

 

これはまさに葉隠の作者の死に方に違いないが、葉隠の時代にはそれを良しとしなかったのを見るに先の文化に強い影響を受けることを僕は疑えない。

 

先ほど、現代人の死に方について例えを出したが、この例えは適切でないように思う。実際の多くの現代人は死を意識しないことが特徴に思うからだ。

 

現代人はひどく死から遠ざかっている。身内が何かしらで死ぬまで死に直面することはまぁ稀であるし、映画のスタンドバイミーみたく小学生時分に森の中で死体を見つけるなんてことは滅多にない経験だろう。

 

僕が考えるに思考は記憶の想起の無秩序な連なりに生まれると考えていて、死の記憶がない人間は死について考え始めることもない、と考える。ただ非現実において、例えば小説なり映画だが、そのような媒体に死は語られていて、もちろんその架空の死が自分の死まで繋げられる想像力豊かな人間であれば、そこから死を見つめるに至るのかもしれないが、往々にして自分の死を想起できる人間は少ないように思う。ただクオリア問題や哲学的ゾンビの例をあげるまでもなく、直接観測できるものではないしましてや統計を取ることもできない仮定ということは留意しなければならない。

 

ではなぜ自らの死を想起できていないと論じられるかを言えば、社会において噴出している諸問題、それらおしなべて見ればそのように推論できると思ったからに他ならない。

 

我が国の安全保障問題を例にあげれば、わかりやすく思う。憲法9条の第2項はその他戦力これを保持しない、となっている問題である。これが改正もしくは撤回されずにこのまま現在もあるということは、96条において定められているのを逆に読めば国会議員の3分の2以上が9条に賛成しているし、また半数の国民もまた賛成しているということに他ならない。だが僕から言わせれば向こうは銃をこちらに向けていてこっちは丸腰で戦おう話し合おうなどというのは自殺行為であるかもしくは死を恐れない狂戦士かもしくはそもそも状況を理解できない狂人のいずれかだろうと思う。ここで話合い、つまり外交的解決の補足をするが、銃を向けられていてその銃を下ろさせようとするとき話し合おうというのにこちらも銃を向けていては解決せず平行線を辿るからこちらから銃を下げて敵対する意思はないと表明することが肝要だ、との意見を目にするが、それは映画の見過ぎだと言っておきたい。それは個人間であるか、また警察機構の下に対象者がいるから成り立つ解決策であって、世界の警察がない、無理だと分かった現在ではこちらから銃を下げるのは有効な手段でない。そして、最大の勘違いは平和をどちらも銃を下ろした状態だという誤認であって、国家間において現実にあり得る平和は先ほどの例の中の違いに銃を向けあった状態での平行線であることを再認識すべきなのだ。この平行線をいつまでも維持し続けることこそウェストファリア体制以降の平和秩序の基本的な姿であることを承知してもらいたい。軍縮の果てに第二次大戦が起こったことをもう一度振り返るべきだ。

 

他にも例を挙げよう。僕らは病が治らなかった時、治療に携わった医者を無能とののしることがある。なぜ罵るのか。医者が目的を果たせなかったからだ。僕らは仕事を片付けられないと怒られる経験を日々繰り返し、仕事で目的を果たせないことはいけないこと有り得ないことと思っている。だが人が人の生き死にをどうにかしようとすることそれ自体果たし得ない業なのだと理解するべきで、他の仕事の目的とは一線を画している。そのこと抜きにして誰のせいでもない病の死を担当医のせいにするのは、死が軽んじられている証左ではないか。

 

他にも例を挙げよう。高校三年には将来の進路を指導される。ここでの進路とは卒業後もしくは進学先の卒業後に就く「仕事」を指している。なぜ仕事なのか? 将来の夢を語るとき人はやはり仕事をあげるだろう。ケーキ屋さんとか。唯一例外は専業主婦だがこれも昨今では「主婦業は年収に換算すれば…」と言われることからも仕事と見なされるようになったと言っていい。なぜ仕事なのか? なぜどう死にたいか? ではないのか、なぜ何を成したいか? ではないのか。なぜ進路指導の際、女に子供を産み育てたいというオプションが挙がらなのか?  現代日本人の思想の限界が金で全てだからだ。志が金になるか? いや、ならない。子供が金になるか? いや、2000万円の負債だ。結婚が、恋愛が金になるか? いや、金がかかって仕方ない。これが現代日本人の限界なのだ。なぜ金に固執するか、生きている間しか考えられないからだ。あの世にまで金は持っていけないことは誰しも知っている。これも現代日本人がいかに自身の死に疎いかがわかる証左だ。

 

他にも例を挙げよう。民主主義な割には投票率が低いらしい。人は政治に興味がないという。なぜ興味がわかないかといえば、政治は私の生活に直結しないからだという。投票すれば電車が止まらないようになるのか? 投票すれば彼女ができるのか? 投票すれば職につけるのか? 風が吹けば桶屋が儲かる方式で想像力を膨らませれば投票すればそれらの願いが叶う可能性が上がると言えるだろうが、こう言った瑣末なこと以上に投票しない原因は将来について何の展望もないことを僕はあげたい。そもそも政治はこの先どうしましょう? という問いに答え続けることであって、今現在でしか生きない鳩レベルの人間にはそもそも思考に上がったこない。この街を大きくしたいから高速道路や新幹線を通しましょう、とかどうでもいい人間ばかりなのが現代日本人なのだ。「高速道路? そんなの敷いて本当に景気が良くなるのか? わからない、わからないことはするな!」というのが現代日本人なのだ。何がわかるか、算数はわかるらしい。政府は借金が多いらしい、借金は返さないとダメだ、が現代日本人なのだ。将来、投資、未来技術、これら不確かなものがどうなっているか予測まで言わずとも、望むこともできない現代日本人がどうして政治ができるのか? 民主主義がいいと言っている人たちには是非とも答えてもらいたいところだ。

 

死から如何に現代日本人が遠いところで生きているのかを諸所社会問題を列挙していることをここで再確認しておく。

 

例を挙げよう。

出生率が下がっているらしい。先進国は基本的に出生率が下がる傾向にあるが、日本はバリバリ下がっているらしい。なぜ下がるか? 婚姻率がさがっているからだ。なぜ婚姻率が下がるか? 金が安定的に稼げないからだ。将来安定的に食っていけるかわからないぐらい今が貧しいから結婚しないのだ、という。この論は経済評論家の三橋貴明氏や藤井聡先生などの意見から得たのだが、僕はもう少し心的哲学の領域に足を踏み入れてみたい(どうでもいいチラ裏なんで好きにする。)同僚にベトナム人がいるのだが24歳で子供をすでに儲けている。バイトなので決して安定的とは言えないが結婚もして子供もいる。こういうことを考えると、「今お金がない」ことによって「将来もお金がない」と予測して理性的に結婚を控える(結婚したいがしない)のではなく、そもそも結婚に価値を見出せないから、もしくはもっとひどく結婚それ自体想起していないのではないかという危惧さえある。要は結婚や出産や育児が二の次で社会的に要請されるものとして認識されていることがうかがえる。だが結婚や出産や育児は社会的に要請されるものでなくいたってプライベートな個人間的な行為にも関わらず。なぜ、プライベートな行為が社会的なことに移り変わったかを考えるに、自分がどう死ぬのか? という根源的な問題を想起できなくなったからに他ならない。独りで死にたくない、誰かに死を見守られたいと考えるなら、家族を作るか、母より先に死ぬ以外ない。母より先に亡くなることは母の誰かに見守られる死を奪うことだからやはり自分も子にそれを行ってもらいたいとそう願うのが自然であろう。例えば北海道に住んでいて誰とも知らない人が沖縄で死んだとして誰が葬儀に駆けつけるか。

もっと単純な環境を想定するなら野垂れ死なないように家族を形成しようするだろう。より長く生きより良い形で死ぬために結婚などをして家族というものを形成することは誰しも考えうる解のひとつなのだ。だが現代には家族を形成するほかに、生涯独身であっても、入院して死ぬとか社長になって部下に看取らせるとか様々なオプションが用意できる余地があるだろうが広く一般に容易い方法として家族はいまだ有効であることは疑えない。ひとつに突然な孤独死を想定すればいいが、プライベートな空間で突然訪れる孤独死による死体の放置を回避するにはプライベートな空間に毎日誰かが来ることが条件になるが、プライベートな空間に毎日出入りできる誰かを例に挙げようと思っても家族以外のいい回答はなかなか一般人には想定しづらいのではないか。また、死んだら自分がどうなろうと無だからどうでもいいというものがある。まず、死んだら本当に無なのかは誰も知り得ない。地獄にいく、審判を受けると同等の正当性でしか死以後は無と言えないことを考えればまずそんな気は起きない。いや、やはり死以後は無だ! と死以後は無教に入信しているとしても、なぜその場で死ぬと確信できるのか。もしかすれば死の淵から帰って来られるかもしれない瀬戸際、その可能性を限りなく小さくするのは中々に愚かだと僕は思う。いや、費用対効果が、そんな一瞬、残り少ない人生一年や二年変わりはしない、というなら、僕はこう答える。なぜそれが70や80を想定できるのか。それは明日かもしれないのだとなぜ考えられないのか。まさにここに死を考えない最大の問題が突きつけられる。なぜ遠い将来にしか死がないと考えられうるのか? 繰り返しになるが死はいつどこでどのように訪れ、またどのような状態になるかが誰にもわからず、死に対して今生きる私たちができることは理想の死という着地点にできるだけ近くにランデブーするような生を送るしかない。そのためには死を見つめなければならない。なぜなら自分が死ぬことからしかどう死ぬかを描きようがないからだ。今日と同じように明日もまた目が醒めるとは言えない。そういう立ち位置から現代日本人の生を見れば、その幾人が、「まだ死ねない」と言える生を送っているかは甚だ疑問であると断じずにはいられない。